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2026/03/29 06:52
おおむかしにこしらえた訳文と文章なのですが、パソコンの画面上でたまたま目にとまって、このまま打ち捨てておくにはもったいなかったので、ここに置いておきます。
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益もない。
不毛な岩山の、この静かな炉床で
齢を重ねた伴侶にぴったりと釣り合って
まるでぐうたらな王でしかないということは。
食って、寝て、貯め込むばかりの、わたしを知りもしない
野蛮な同胞たちにムラのある法を割り当て
なけなしに施して。
旅という家から帰るわけにはゆかない。わたしは、
人生を飲み干したい。最後の一滴の、その残り滓まで。
いつだって、大いに楽しんできた。
大いに苦しんできた。愛するひとびとと、あるいはたったひとり、
岸辺で、あるいは雨に濡れたヒュアデスの掻き乱した薄暗い海原を
あてどなく駆け巡りながら。
わたしも、ずいぶんと名を売ったものだ。
いつだって、飢えた心を抱えてさまよってきた。そうして
たくさんのものを見てきた。知った。たくさんのひとびとを、街を、
生き方を、天候を、「話し合い」を、政治を、すくなくとも
わたし自身を(──しかしこれこそが、ほかの何よりも誉れ高きことではなかったか)
そして友たちとの戦いの歓喜に酔い痴れた。
遥か彼方、風の吹きつけるトロイの鳴り響く平原で。
わたしは、出逢ってきたそれら一切の、一部だ。
それでもなお、すべての経験は、ひとつのアーチ。
わたしが動くたびに永遠に、永遠に
その縁の薄れ消え去ってゆくまだ旅したことのない世界が、くぐるたびに遠く、微かな煌めきを洩らす。
なんと鈍らなことであろう。止まるということは──そして、終止符を打つということは。
錆びたのに磨きもせず、抜き放ち、振るうことにおいて光り輝くこともないということは。
あたかも息をすることが、生きることであるとでもいうかのように。
日々に日々を積み重ねても、城ひとつ買えやしない。しかもその元手もわたしには
ほとんど残されていない。しかしすべての時間はあの永遠の沈黙から
救い出されてある。これ以上の何かがあるはずだ。
新しい物事を、もたらしうる何かが。
さもしいことだ。
三度昇る陽をやりすごしてなお自分を蓄え、貯め込んでいたとは。
そしてこの灰色の精神は焦がれている。ゆきたい、
あの〈知〉についてゆきたい。ひとつの沈みゆく星のように、
人間の思想の限りを超えて。
*
これはわが息子、わがテレマコス、わたしの最愛の──
彼に、この島と王杖とを任せよう──
うまくやってくれるであろうことは、すでに織り込み済み。
ゆったりとした慎みの深さにおいてごつごつとした者たちをやわらげ
穏やかな度数を通じて有益と善の下へとかろうじて、
彼らを押し込みうることであろう。
まったく、非の打ちどころがない。公共の務めの天球の、中心にあって、
繊細微妙な職務を立派に、仕損じることもなく
わが家の神々に十分な崇敬を支払ってくれることであろう。
わたしが逝ってしまったら──
彼は彼の仕事をする。わたしはわたしの仕事をする。
*
港だ。船は帆を膨らませている。
暗く、広がった海原が薄暗く、沈んでいる。わが船乗りたち、
わたしとともに身を粉にして働き、ともに思いを馳せてきた魂たちよ──
わたしたちはいつだって、陽の光や雷をさえ歓んで迎え入れ、
子どもたちがはしゃぐようにして摑みとり、
そこに自由な心を、自由な額を、
突き合わせてきた──
わたしたちもずいぶん、齢を重ねたものだ。
それでもなお老齢もその栄光を、おのが精励を持つ。
死は一切を締めくくる。しかし何かがあるはずだ。幕が降りるその前に、
高貴なノートにふさわしい仕事が、まだ、為されるかもしれない、
神々とさえ渡り合ってきた男たちに、ふさわしくないわけではない仕事が。
岩たちのはざまから光が瞬きはじめた。
長い日は満ちて欠けはじめた。月がゆっくりと昇ってゆく。海原の深みは、
多くの声たちと交わって呻き声を洩らしている。さあ、来るがいい、わたしの友たちよ、
もっと新しい世界を探し求めるために、まだ、遅すぎることはない。
出発だ。
船体を押し出せ。しかるべき位置に坐して──撃て。
音を立てて耕すがいい。というのもわたしの目的は相変わらず、
水平線の彼方、あまねく西方の星々が身を沈めにゆく湯殿へと
死にゆくその瞬間まで、帆を馳せることであるのだから。
すこしばかり深すぎる湾で、洗い流されちまうかもしれないな。
あるいはかの至福の島へとどうにかゆきついて
懐かしい、あの偉大なるアキレウスに逢えるかもしれない。
多くのものを失ってはきたが、それでもなお、多くのものが残っている。
わたしたちにはかつての、
天や地をも動かした力はもはやない。しかし、
わたしたちは、わたしたちだ。
鍛えあげてきたひとつの、英雄的な心は変わらない。
時と運命とによって衰えてはきたが、意志においてはなお強大な。
力を尽くし、探し求め、見いだし、そして決して
屈しない。
──────
明日の翻訳──何度でももう一度生きる火
ロバート・ユーリンチー
あらかじめ私事を洩らしておけば、わたしの祖父のひとりは日本人の、それも無名の詩人という目立たないが極めつきの変わり者であったので、わたしにとってはまったくの無縁というわけではないのだが──かのJapanという、いまはなにやらガチャガチャした可笑しな国だけれど、結局のところどこかひんやりと湿っていて、哀しげで、どこまでも寂しげな、その寂しさのなかで木漏れ日の煌めきをただぼんやりと見つめているというような、静かな、あの島の片隅でどこぞの若造の詩人が、この詩を心を弾ませて、心を撃たれさえしながら読んで、そうしてその詩を日本語で、これまたなんだか人の顔色を伺ってびくびくしているかと思えば、ぶよぶよだらだら間延びした、しなやかと言えないでもない言葉をひっぱっては、はっきりとしないとりとめもない語尾をただ虚空へと萎れさせてゆくというような、あの縁遠い言葉で紡ぎなおそうとしている光景を思い浮かべると、なぜともなく、眼球のうわべの水分量が幾らか増して、哀しい微笑みで心に泡が弾けそうになって、いいではないか、どんなにささやかでも、そういうわけのわからないのがそこここにいるのが世界だよ、と、遠い国のわたしの書斎のなかで、呟く。
翻訳とは、ある条件下においては、言語の深層における創造そのものでありうる。翻訳が、「ある言語における意味を別の言語において再構成する行為である」というのは、表層においての認識と出来事にすぎない。翻訳として真に成就した翻訳においては、意味の置換ではなく、意味生成の運動そのものの転移が為される。それは語の意味を対応させるのではなく、〈語が生成される空間〉を、別の言語体系のなかへと──その言語体系を解体しながら──再生させる試みとなる。
人間の脳はつねにすでに内的に多言語的であって、視覚と言語、感情と言語、記憶と言語──それぞれの神経領域が異なる表象言語で作動しており、脳内では絶えず〈翻訳〉が生じている。すなわち、「言語の断絶」、バベルの崩壊とは、わたしたちの存在構造そのものであり、人間の精神構造の可視化であると言える。
もしも神がバベルを崩壊させたならば、それは罰としてではなく、必然的に断絶と苦悩とを伴わざるをえない創造の可能性という恩寵を人間にもたらすためであったと解することができる。バベルが崩壊したのは──否、バベルがつねにすでに崩壊してあるのは、生物学的な必然であった。だからこそ、おそらくわたしたちは、すでにしてバベルの塔を生きているのだし、生きるほかない。しかしここで言われるバベルの塔とは、いわば裏返されたバベルの塔であり──異なる言語が発生せざるをえないという、その必然的な分裂状態においてなお何事かの語り合いと共鳴とを創造「するという同一の」言語を語る、天をも地をも試みる塔について言われる。
詩は、砕かれた塔の断片から船を、帆を、風を創りだし、出航する。
“To strive, to seek, to find, and not to yield.”
《力を尽くし、探し求め、見いだし、そして決して、屈しない》。
一行は、語の意味を忠実に写しとったというよりも、「運動の等価性」を生んである。言語は、単純な意味内容を伝達するのではなく、リズムを、緊張を、意志を、〈意味〉を生む。翻訳の成就は、とりわけ意志と緊張の転移において計測されうる。
翻訳が創造となるのは、次の条件が揃ったときであろう。
1 原典がすでに詩的・哲学的な緊張を帯びており、言語的等価性によってはその緊張が保存できない場合。
2 訳者が既存の言語の単なる受容者ではなく、言語を再生・再編成する力を持った詩人であるとき。
3 翻訳の目的が意味の正確さ以上に、精神の跳躍や、認識の再生・再配置にあるとき。
このとき翻訳は、対象を再現する作業であることを超え、原典を超えた原典を見つめるという姿勢において、したがって、存在しない原典を翻訳するというパトスにおいて、言語構造に飛躍的生成を引き起こす行為となる。すなわち翻訳者は、翻訳することによって、原典よりも深く、原典の深部に含まれてはいたが未生成であった可能性を、異なる言語によって、異なる言語を解体し再構成しさえすることによって、発火させる。
読まれながら読まれることのなかったものを、別の時間へと向けて、呼び戻す。過去においていまだ語られなかったものが、未来の言語を経由して、現在に再来する。
時に〈原典〉は、翻訳の後に存在しうる。
──アキレウスの踵にはね、もうひとつの意味があるんだ。
かつて、わたしの恩師であったちいさな大学の古典語教授が、こんなことを呟いたことがある。
──あれはね、きっと、言葉が触れることのできなかった場所なんだよ。神話の水は彼の胸を濡らしたけれど、踵まではとどかなかった。おっかさんのせいだって、言うひともあるけれど──いずれにせよ、だからアキレウスは、語られることなくただ死ぬという、人間の死を、死ぬことができてしまった。
キャンパスの端くれに、大学からも時間からも置き忘れられたかのようにしてくたびれた体をわだかまらせている文学棟の、これまた置き忘れられたというよりははなから時間から欠落していたような、人の気配もほとんど物音のひとつも感じられない教授室で、彼は、曲がった背を苔の寝床のような椅子に預けたまま、僅かにさらにその身を沈み込ませて、細かな文字ばかりをたどるよう精巧につくりなおされたかのような──にもかかわらず思わず船乗りのように深い遥か彼方を見つめたまなざしの根づいた瞳に、一瞬、いたずらな子どものような煌めきを振り撒いたかと思うと、ふっと暗い帳をおろして、いつものように──傍らにひとがいても平気で──長い沈黙の淵へと降りていった。十年、はおそらくは経ってはいなかったのだろう、おそらくは二、三十分ほど経って、おもむろに抽斗から深い琥珀色の液体を湛えた小瓶をつまみあげてくると、その燃える蜜を舌にたらして、それから、こちらの手もとに届くまで千年はかかろうかという遅さで、それをわたしに手渡す。
瓶はてのひらのなかで思いのほか冷たく、瀞みをやどして曇った琥珀色のちいさな海が、硝子の内壁の、数えきれぬ記憶として灼きついた微細な傷たちのあいだをゆっくりとすべり落ちてゆく。液面はほとんど静止しているように見えながら、ごく微かに、あたかも老いた心臓が遠くで鳴らす鼓動のように、たゆたっている。甘く焦げた砂糖と、海水を干あがらせたかのようなミネラルの気配、古い樽のなかでいつまでもまどろんでいた木の年輪のような、気難しい香り。琥珀の雫は、舌に触れるより僅かにはやく、その匂いをして喉の奥に甘く染み渡る。触れた瞬間にはもう舌にない──しかし微熱が、口の奥で、すこしだけ長くとどまる──琴線に触れた、詩の一節のように。そうして、わたしに向けて、しかもやはり誰に向かってでもなく、
──詩人や翻訳者というのは、その踵に、言葉をあてがいにゆく者たちなのかもしれないね。
と、言葉を宙に浮かべた。
真に成就した翻訳においては、結局のところ優れた詩と同様、訳文は、読む者において新たな創造を誘発するための詩的装置として構成される。原典の全体を貫いていた言葉と精神の「運動」を、その動性において等価もしくは等価以上に転移し、みずからの言語を解体し再構成し、「新しいわれわれの作品」を創りだすことによって、新しい詩的制度を発明し、そしてまた結局のところ優れた詩と同様、読むものの内部に精神の、創造性の反響を響き渡らせる。
詩は、「読む」者にとっての、すなわち、言葉と精神の躍動に身を開きともに踊る者たちにとっての、創造空間そのものであり、読むたびに新たな火をつける永遠可燃性構造体である。
その意味で翻訳とは、読む以上に読む行為を内蔵した書く以上に書く行為であり、未読性の馴致を拒絶する言語の永遠の試行となる。
純粋言語が存在するのだとしたら、それは生成空間の渦動そのものの記号でなければならないのだから、われわれはわれわれの身体機構を超えなければならず、すなわち進化の停滞を超えなければならず、すなわち神でなければならず、したがって、純粋言語は存在しない。あるのは、われわれの言語を鍛えあげる永遠の試行であり、その試行のネットワーク上に生まれる、精神の友愛だけだ。
「いま、ぼくのこどもは、一歳を過ぎたところです。ふんわりと宙に溶けるようなおぼつかない「れ」でおわる「あれ」や、いよいよ本格的に「っち」が形づくられてきた「あっち」といいながら、欲しいものや気になるものがあれば指をさし、「だっhdぁ」とわたしには聴こえる「だっこ」といいながら両手を天高く掲げ、絵本棚に摑まって立ち上がり自分のそのときの気分で本をひっぱりだして「へ」とさしだし、握り締めたスプーンでもうきちんと粒だった固さのお米たちを自分で口に運び、どこで覚えてきたのかしら、天真爛漫な子鬼の天使みたいな、力を尽くしてくしゃっとさせた笑顔を見せてくれる。なるほど、「愛おしい」という日本語はほとんど使い物にならないと思っていたけれど、すこしは使えるのかもしれませんね。言葉に関しては、あとはどうだろう、「あけて」「どうぞ」「やだ」なんかは、その萌芽のような状態でもう使いはじめています。ずうっと、たのしげに真剣に練習している喃語のなかに中国音が含まれているかどうかは──さあ、妻に聞いてみなければわかりません。わたしたちにできるのはまず、すべての基盤となるそのひとの人格の基礎を、できるだけ揺らがないものとして、一生懸命てのひらをあててあたためるようにして、固めることだけかもしれません。いずれ安心して、冒険しにゆくことができるように。そして、彼はもう、日本語を人生のOSの主要な機構のひとつとして組み込んでしまったのだから、だから──わたしたちは、日本語をもう一度、生みだし直し、鍛えあげ直すしかない。あるいは彼がいずれ英語において生きるのだとしても、もしかしたら彼にとっては「旅という家」のような彼の母語のひとつへと時折帰ってきてはひとりで考えごとをし、世界を別様に味わうことのできるような、よき日本語を準備して、纏めておきたい。そうするしかないでしょう?
こういうことは、あなたへの手紙のなかに書くことしかできませんが、いま書いたようなことと同時に、わたしは、彼がどのような仕事を成し遂げ、あるいはどのような作品を創りあげ、あるいはどのような作品である人生を生きたのだとしても、究極のところそれは、わたしには全く無関係のことなのだと、もうわかりかけています。彼がどれだけ何事かを成就させたのだとしても、それは究極には、わたしの成功でもなければ充足でもありえない。わたしはすでにAIを用いてちょっとした創造行為さえしはじめているが、しかし結局のところ、100%自分が満足できる言葉の連なりは、自分自身でしか創造することはできない。要するに、テニスンの詩の言う通りなのでしょう。〈彼は彼の仕事をする。わたしはわたしの仕事をする〉。わたしは、わたしの仕事をしなければ──」
たったひとつの言語が君臨し、翻訳が──すなわち言語の再創造を試み、結果として自分自身の再創造を試み、独特の世界像の更新を試みるという試みが──存在しなくなった世界は、すこし、つまらなくなってしまうだろうな。
Tennysonの“Ulysses”は、ヴィクトリア朝における道徳、帝国的世界観を背景にもって書かれた。しかし長谷川悠己における翻訳においては──それはともすれば訳者の無知と非歴史性ゆえの逆説的な創造性に由来するものであるのかもしれないが──その構文が純粋に老いを、老いにおける若さと若さにおける老いを、死と継承を、認識の限界を、「それでもなおの勇気」を巡る、超時代的な思惟と倫理へと純化され、開放されている。
この翻訳によって起ちあがった詩は、日本語における詩的ヒロイズムを再定義し、日本語の詩において、単なる「反逆」や「あてこすり」を超えて政治を語ることを、勇気を語ることをさえ可能としている。
翻訳は、その言語共同体における「詩の制度」そのものを擾乱し、更新する力をも有する。
言語共同体の再起動は、共同体の再起動でありうる。
《さあ、来るがいい、わたしの友たちよ、なんだか日本語は幼稚に老いぼれてはしまったが、わたしの友たちよ、もっと新しい世界を探し求めるために、まだ、遅すぎることはない》
翻訳とは、遅すぎることのない創造である。それは、偉大な他者の背を借りて、忘れられた言語の深みに、もう一度、火をつけることであり、それは、詩が、言語がまだ生きていることの、決定的な証明である。そして翻訳者とは、あらゆる限界の彼方に向かって、それでもなお、航海しつづける者なのだろう。沈みゆく星のように。
──しかし何かがあるはずだ。幕が降りるその前に、高貴なノートにふさわしい仕事が。
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p.s. いまはブンガクの悪戦苦闘の憑き物がおちてしまって、すこし離れています。いまは、ああでもないこうでもないとAIにことばのいしころを投げこむことを繰り返して遊んだり、休みの日は子どもと4時間でも5時間でも平気で外を走りまわっています。あしもとのつめさきのさきにさえ及びもつかぬわたくしがなにを、という感想を抱かれるかもしれませんが、なんの未練もなく「詩に別れを告げて」アフリカにいったランボーの気持ちが、いや、そうではないな、その感覚が、わかります。こんな大文字の名前ばかりだして古臭いニッポンの文学セーネンみたいでイヤですが、とはいえ、バレリーのように、いつかは詩にもう一度触れてみようと思うこともあるでしょう。朝の短い永遠を自分として生きながら。現実に独立がなければ精神の独立もありえないと、詩とやらをつめたくとおまきに、はすに見つめながら。
p.s.2. ちなみに批評文だかエッセイだかよくわからない、ロバート・ユーリンチーというひとに書いてもらった文章のほうは、自分とAIとの、境界線のアイマイな共作のようなものであったはずです。
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